キリンリュック

二時創作じゃない方の小説倉庫
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# 000
梅川が運営している、創作小説を主に活動しているブログサイトですいません
更新不定期、不謹慎・下品・グロテスクなどの表現があるものには表記します


001  【小説家】  …それでもね、一つだけ覚えていましたよ。
002  【ぼくがかんがえたじゅんあい】  …「愛せないんだから愛そうとしてもできないの」
003  【遅れた一度とずっと】 …「…っもう、ちょっとは考えたらどうなの」振り返らないまま、早口に彼女が言う。「あなたの気持ちを?」
004  【白い粉の食事】※グロ注意 …必死さの中には、飢えや欲望に似た、もしくはまさにその感情が包まれているのだろうと思う。
005  【銀色の宝物】 …あなたたちが羽を閉じて落ちていく姿は美しかった、私は知っています。
006  【それがあなただった】※グロ注意 …そして私はただ料理が運ばれてくるのを待っていた、あのボーイの手に汚れのないまっさらな皿が乗って、それに盛られた料理が運ばれてくるのを。
007  【冬の風物詩】 …また彼がその冷たい言葉で私の沸騰しそうな脳を冷ましてくれるのを待った。
008  【麻痺】 …ここにいる人がいないのならば、ここにいない人がいてもおかしくないのだ。
009  【右腕】 …澄んだ空気にコーヒーの香りが滲み出てきていて、僕はその中で少しだけ泣く。
010  【北極に繋がった街】 …「そうですか、それでは行きましょう」
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# 010北極に繋がった街
北極に繋がった街


ありきたりで薄汚れたバスから降りてそのまままっすぐ顔をあげると、そのシロクマはこの町で一番大きな木の根元にうずくまっていた。輪になったコンクリートの低い囲いに覆われて、そこは一目ひどく小さな動物園に見える。その中の地面は続く冬でできた厚い氷にきっちりと覆われていたはずだけれど、今はシロクマの熱でそれも溶けてしまったらしい。少し黄ばんではいるけれど名前の通りの白い毛にぐちゃぐちゃの土が滲んで、地面に触れる腹や前足の裏、後ろ足の全体はみすぼらしく濡れていた。シロクマはそれを気にする様子もなく、一部だけ地表に剥き出しの太い根に顎を乗せている。そうして、どこか眠たそうに、目を閉じたり薄く開けたりしていた。
またゆっくりと閉じて、そしてぱっと開いた目は私の目を覗く。シロクマは立ち上がり、縮こめいた体を不器用に伸ばしてから私の方へ歩いてくる。朝の駅は人通りが多くて、けれどシロクマは丁寧に人の切れ間を見つけてはそこに収まり、また次の切れ間を通って、人々の意識の裏を飛び跳ねてとうとう私の目の前に立った。
しばらくじっと私を見上げて、ふんふんと鼻を鳴らして黒く縁取られた口を開く。魚と潮の匂いがした。
「おはようございます」
「おはよう、ございます」
シロクマの耳は小さく折ったみたいに下がっていて、それは彼の性格を表しているようだった。彼はとても律儀だった。駅前のタイルに似合わない大きな体に難儀しながら、人々の邪魔にならないようにと常に意識していた。それで、かれは終始もごもごとお尻を揺らしていた。落ち着きがないわけではなく、彼の目はとても静かだった。海の底を見た目だ、とわかった。
「私は、北極のホッキョクグマです」
「あ、シロクマじゃあ、ないんですか?」
尋ねると、彼は柔らかく笑って答えた。
「ああ、そう呼んでくださってもかまいませんよ」
私は安心して、彼の頭の毛に触れた。ずっと根元で待っていたはずなのに、毛の中はじっとり濡れていて、手を地肌に近く潜り込ませていくほど海に近づく気がした。指を広げてたっぷりとした毛の中に這わせると、冷たい海の中を泳いだ時みたいに体は熱くなった。
「今日はどこまで?」
彼は上目づかいに私に問いかけた。微かに上げた鼻先が私の手首に触れ、ひやりと私を動かした。彼はいたずらっぽく「失礼」と言い、頭をふるった。細かい水滴が散って、地面に着く前に空気に吸い込まれて消えていった。空気は乾燥していたのに、まだシロクマの濡れは乾かなかったし、広がった泥汚れが乾いて落ちることもなかった。むしろ、彼はその汚れを擦り落としてしまわないように、慎重に動いているように見えた。なぜそんなふうにするのか、私にはわからなかった。
「これから学校に」
「そうですか、それでは行きましょう」
シロクマがまず先に動きだし、次に私が続いて彼の隣について歩き出した。タイルにはところどころ薄い氷が張っていて、とくにそれは人があまり歩かない端っこに残っていた。私たちは必然的にその氷の上を歩くことになった。氷には一つのヒビも汚れもなく、タイルのくすんだ桃色をほのかにうつしていた。それに比べて、忙しそうに歩く人々の革靴はぬかるんだ雪を溶かしながら歩いて、歩く速度が革の水分を飛ばしきらないうちにどんどんと重い水を吸っていった。それを気にせずに携帯の画面を覗き込みながらせかせかと進む人もいるし、上品に光るハイヒールを庇いながらも、泥水の飛沫でそれを汚してしまう人もいた。シロクマはそんな人々をすっと流し見ては気の毒そうに鼻を鳴らした。彼は氷の上を何の苦も無く進んでいく。私の固いローファーを気遣って、途中から彼は私に背中を貸してくれた。やはり、しっとりと重みをもった水分が手のひらに染みついた。
大きな横断歩道に差し掛かると、彼は少し緊張したように頭を上げた。高く伸びた信号機を仰ぎ見て、感嘆の声を漏らす。私も、足元ばかりに落としていた視線を、彼につられて引っ張り上げた。前進を示す色がちかちか点滅していた。彼は私を気遣って、ゆっくりと止まった。
「背の高い信号機ですね」
彼は鼻先を冷たい空気に突き出して、もういちど感嘆した。けれどそんな信号機よりシロクマの毛の質感の方が優しかったし、彼の持つわずかな黒の色の方が重要なように思えた。彼は、点滅する青が赤になるのを見守り、その赤をじっと見つめて、青に変わった瞬間耳をピクリと動かした。人々が我先にと無感情に歩み出す横で、彼はしばらく青信号を見つめていた。もう少し視線をずらせば、くるくると変わる三色だってあるのに、彼は二人の人間が描かれた信号ばかりに気を奪われているようだった。私は彼の背中を優しく叩いた。
「行かないと、また赤になっちゃいますよ」
彼は一歩踏み出しかけ、けれどすぐにその前足を戻した。相変わらず信号を見つめ、とうとう青が点滅しているのと合わせて瞬きをした。そして信号がすっかり赤になって、車が音を立てて横切り始めてから私の方に向き直った。
「ごめんなさい、もう少しだけ、待ちましょう」
私は返事をする代わりに、彼の背中の毛を整えた。彼は少し気持ちよさそうに目を細めた。そしてそのまま、顔をあげて、三色の信号機が朝の明るさの中ではっきりと光るのを見、今度はその眩しさに目を細めた。逃げるように鼻を反対側に移す。カラオケ店の大きな光が薄い光でライトアップされている。きっとそれは、夜になればかんかんと照る。彼は縁取りの口を開けて、何か言いたげに開いたり閉じたりして、けれど何か納得したように噤んだ。私は彼がため息をつくのだろうと思っていたのだけど、それすらも彼は飲み込んでしまったようだった。飲み込んでももう彼は平気だった。
再び青になり、今度は彼はすぐに前足を出した。急いている人々の誰よりも早くて、私はなんとか追いつこうと、背中に置いた手に力を込めた。強く毛を引いたのに彼は何も感じていないように見えた。彼の頭はまだ街中を見回していた。
「話で聞いていたより、だいぶ明るくて賑やかなようだ」
シロクマは独り言みたいにそうつぶやいた。私が彼の皮膚にそっと触れると、やっと私を思い出したように背中をうねらせた。
「こんなに楽しげな街を歩いていても、みなさん自分だけのものを持ってつまらなそうに歩くんですね」
言葉を地面に転がして、シロクマは歩き続けた。私も歩き続けた。小さな横断方がいくつも続く道を一度も止まらずに歩き抜け、それでも街は静かにならない。どこにも大きなスピーカーがあって、昼間に対抗した赤や橙やピンクの証明はちかちかと目を眩ませようとしてくる。すれ違う人々や私たちを追い抜いて行く人みんなが、溶けかけた地面を睨み付けて、そうでなければ何の目的もなく遠くを眺めて、ばらばらの音楽を持て余して歩いた。私はシロクマに何か言葉を渡さなければと思いながらも、ただ毛並みに沿って手を流すことだけを何度も続けた。シロクマはけれど何にも不満を持ってはいなかった。ただ、そんな街や人々や私を湿った目で眺めて、コンクリートの氷の上をとんとん歩いた。
「北極の氷は、清らかさとは違うけれど、いろいろな生が詰まっていて、それでいて私たちのような生き物たちをしっかりと受け止めて、厚くて頼もしくて美しいんです。見たことはありますか?」
シロクマは私を見上げることなく、懐かしい場所を眺めているみたいに、昔のアルバムを眺めているみたいに言った。
「テレビで見たことはあるけど、けどもう」
「そうです、もう、すべて溶けてしまったんです」
シロクマのお腹くらいの小ささの氷の塊がぽちゃんと音を立てて海の底へ行ってしまう。信じられないくらい高い塊が崩れていき、細かい氷の欠片が煙みたいに舞う。円盤状の氷の板の上で幾頭ものシロクマが孤立する。一頭のシロクマが空を真っ直ぐに見上げて、大きく鳴く。それを合図にするように、円盤が真っ二つになりシロクマは残らず滑り落ち、後に続いて半月状の氷も順に落ちていく。世界各地からやってきた巨大な船はそれらをしっかりと撮影しながら、行く手を阻むものがない広大な海をすいすい進む。船からも氷の塊からも遠いところで、一頭のシロクマが優雅に泳いでいる。けれど彼は、やがてすべてを悟ったよう、抗うことなく海底へ進む。静かな海底へ。
「私たちの日常は無くなりました。消えてしまったんです。もう、戻りません」
私は頷いた。シロクマは目を細めて、きっとあの大きな氷を、彼の故郷を思い出している。彼はそして、優しく黒い口を開いては海の匂いを運ぶ。
「けれど私たちは誰かを恨んだりはしないんです。私たちは、消えていく私たちを愛している、と言ってくれた者がいるのだと知っているんです。まだここに残る者たちのことを私たちは考え、そうして思うんです」
音を立てず私の足だけが数歩先に進んでいった。私は悲鳴を上げることもできず浮遊する。けれど瞬間、シロクマの後ろ足と背中が私の背中を支えた。数秒だけ時間が止まる。シロクマの毛は暖かく濡れていて、私の制服を濡らした。彼が運んだ海水が私に染みついた。私は口の中にしょっぱさとそれにまじったいろいろな味を感じて、彼の目を見た。彼は本当に優しく、私を支えてそれからゆっくり立ち上がらせて、また背中を掴ませてくれた。そっと制服に触れるともう湿り気は無くなっていて、代わりにさらさらと細かい砂がこぼれてきた。私はあわてて手を離した。
「それは砂じゃありません、北極の氷の欠片です」
「それじゃやっぱり、これも溶けてしまうんですか」
「いいえ、それは溶けません。あなたたちが消える時まで、それはずっと溶けません」
彼はそれから薄い吐息で私を促し、歩き出した。足元のコンクリートは氷で濡れ、暗く光った。
「シロクマさんは、」
私がそう口にすると、彼は鼻を鳴らして遮った。彼はこんな時も私を気遣った。
「いいんです。ただ、私たちの日常が終わってしまっただけなんです。日常はずっと変化し続けます。毎日毎日、北極は溶けて無くなっていっていました。それで、とうとうその変化に耐えられなくなって、終わってしまったんです。変化の向かう先が無くなっただけなのです。だから、あなたの日常も変化しきれなくなれば終わります。本当です」
シロクマが踏み出した前足の周りに亀裂が走り、氷はこぼれていった。亀裂は一瞬のうちにいびつな円の形に広がった。こぼれていく氷の量が一気に増え、それはどうしようもなく崩れた。底のない海に、シロクマは落ちていく。私はいつの間にか背中から離れていた手を、彼を追いかけるように海に浸した。海水は冷たく、氷のように硬かった。硬い波が白い泡を吐いて、彼はもうここに来ることは無いんだと知らせた。泡が弾けていくとだんだんと海の中の様子が見られるようになった。彼は、もうだいぶ深いところまで落ちていた。細かい気泡と一緒に土ぼこりが溶け広がって、彼の大きな体の周りを色づかせている。それは私からは綺麗な輪に見えた。彼が蹲っていた木の根元の、小さい動物園の丸い柵と同じだった。穴はずっと塞がらなかった。
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# 009 右腕

 1


その痛みを初めて感じたのは、ボールペンを拾い上げた時だった。


ボールペンはスーツの胸ポケットからあっさりと落ち、無抵抗な音をたててアスファルト道路に転がった。僕は特に何も考えないままそれを拾おうと身を屈めた。少し伸びてきた前髪が目を覆うようにして落ちた。その時初めて僕は髪の音を知った、一本一本が触れ合い擦れあい微妙にざらついたような音だった。
今はもうその音を聞くことはできない。いくら頭を振っても前髪を長く伸ばしても、微かな音は耳まで届いては来ない。

僕が髪の音を聞いていたとき、僕の腕も同じ瞬間、決定的に病んでしまった合図を出していたのだと思う。けれど僕はその合図を感じることはできなかった。僕の耳は、初めて聞くはっきりとした髪の音で埋められていた。だから、その時腕がどんな音を立てて変わってしまったのかを僕は知らない。
そのかわり髪の音だけは鮮明に覚えている。髪の芯から表面まで音が染み渡り、それぞれ少しずつ違う髪の音が重なり合い擦れ合い、自然に僕の耳に伝わってくるまでの様子を何度でも鮮明すぎるほどに頭に映すことができる。


腕に痛みが走るたびに僕は腕から発せられた知らない音を思い描いてみる。けれど答え合わせはできない、僕の腕は完全に病んでしまっている。だからもう、健全から不健全に切り替わる瞬間の音を聞くことはできない。僕の右腕はもう永遠に変わらない。

ボールペンに指の先がふれた瞬間に最初の痛みを感じた。痛みは人差し指の先端から一瞬で肩の付け根のあたりまで広がってきた。表面を滑るように右腕全体を覆い、それからじっくりと肉に潜って、最後には骨を響かせた。痛みを感じなくなるまで数分かかった。僕はその間、腕が何かに触れないようまっすぐ垂らしたまま、もう一方の腕でボールペンを拾い上げてそのままバッグの取っ手を掴んだ。屈めたまま固まっていた背中と足を、慎重に伸ばした。ボールペンを落とす前の体勢にもどってもまだしばらく、痛みは腕を巡っていた。


痛みが消えたのがわかると僕は何も考えられないようにすぐに足を進めた。


 



朝体を起こすと、毛布と右腕が微かに触れて痛みが走った。起き抜けの喉から息が漏れる。息は冷たく澄んだ空気に無防備にやわらかく広がっていった。痛みの抜けない右手に触れないよう用心しながら毛布をめくり、左手でしっかり体を支えながら上半身を起こした。何日か同じ動作を繰り返してきたので慣れたものだった。


あの日のボールペンは未だにスーツの胸ポケットに入っている。あの日から右腕は何も変わらない。痛みを感じる長さも痛みの広がり方も、変わらない。だから僕は右腕をうまく扱って生活しようとした。できるだけ右腕に物が触れないよう、左手を今までにないくらいせわしなく動かした。


僕はアイロンのきちっとかかったシャツが好きだ。
まっさらに洗い上げられて、清らかな空気にさらされ水気を飛ばされて、最後にアイロンによって直線を取り戻した、清潔なシャツ。起きてまだ目も覚めないまま昨日の夜のうちに完璧になったシャツを手に取り、両手で両肩の部分をつまんで目の前まで持ち上げて、朝の静かな空気をたっぷりとシャツに吸わせてから、袖を腕に通していく。まだ体温で濁る前の空気に満ちた部屋の中に、布が鋭く擦れる音が微かに響く。
けれどその音はもう聞けなくなった。ただ毎朝毎朝僕は澄み切った無愛想な朝の空気の中に一人きりで放り出された。しかも、触れれば痛むこの病んだ右腕をぶらさげたまま。


痛みが表れて最初の夜、左手にアイロンを持ち、シャツの上を滑らせようとして、今までの左手の役目を思い出した。左手はシャツを押さえ、右手が操るアイロンをうまく誘導していたのだ。けれど僕はもう左手にアイロンを持つしかなかった。左手の役目を右手に押し付けることもできなかった。ためしにシャツに掌を乗せると、掌全体を針で深く刺されたように痛みが広がった。しわをのばそうと少しでも位置をずらせば、手と布が擦れた分だけの刺激が何倍にもなって痛みに変わった。耐えられないで右手を離した。シャツは不恰好にしわだらけで、左手のアイロンだけを動かしても、どうしてもそのしわはとれなかった。シャツは僕の目の前でひどく申し訳なさそうにしわに包まれていた。アイロンが蒸気を吐き出した。


その夜から僕はまともなシャツを着られなくなり、今朝もできるだけ布と右腕が触れないよう時間をかけてもたもたと、どうにかシャツを羽織った。それから左手だけで小さなボタンをかけていった。よれた布に手間取ってひどく時間がかかる。その間右腕は、僕の体がかすかに動くたび小さな痛みを全体に散らしては広げ、それは一定の時間を過ぎて消えていった。


どうにかシャツを着終わって(それは着るというより体を押し込めると言ったほうが正しいのかもしれない)、キッチンで薄いコーヒーをコーヒーメーカーで淹れながら窓の外を眺めた。窓ガラスをするりと通り抜けた光がフローリングを撫でて、小さな傷の奥まで暖かさを擦り込んでいる。ふらふらと窓際に寄っていって、ちょうど日が当たる床の上に足の裏をそっと置いた。するりと暖かさは冷えた足の裏に吸い取られてしまって、あとは小傷だらけでワックスが剥げかけた板があるだけだった。それでも日はそれに気が付かないまま僕の足の甲を撫でた。なんだかくすぐったい気がする。
思わず口角が上がり息を短く漏らして笑う。体全体が小さく震え、右手の指先がシャツの裾に触った。
痛みはやはり変わらず右腕全体に広がる。


澄んだ空気にコーヒーの香りが滲み出てきていて、僕はその中で少しだけ泣く。


 



珍しく帰宅が遅れ、閉店間際のスーパーで惣菜を三種類買って帰った。


閉店の時間まで十分もないくらいのはずなのに客は決して少なくなく、なかには母親と、それに手を引かれて歩いている子供の姿もあった。母親は右手で子供の左手をやさしく握っていて、けれど商品をカゴに入れるたびにその手を離した。子供はそのたびに母親のもとから少し離れて、棚に並ぶ商品をもの珍しそうに眺めたり、時々その商品を右手の人差し指でつついたりした。昼間と変わらないほどのざわめきのスーパーの中で、ミネラルウォーターのペットボトルと子供の指先が触れる音だけがやけに響くような気がした。


僕はカゴを持っていないほうの手で耳をふさごうとした。指先が耳たぶにそっと触れ、痛みが流れた。僕の口からこぼれた呻きは、たくさんの人のせわしない足跡の中に埋もれたまま誰の耳にも入らなかった。生理的な涙をこぼさないよう二回瞬きをした。それを合図と勘違いしたように、営業終了の音楽が流れ始めた。母親はあまりあわてる様子を見せないまま最後の商品をカゴに入れ、駆け寄ってきた子供の左手を握った。買い物カゴを持った客は全員残らずレジに並び、見回りの店員が残された商品の間を回った。僕はその店員に声をかけ、適当な惣菜品を三つカゴに入れてもらった。それからレジにできた列の中で一番長いところの最後尾に並んだ。


ゆっくりと周りを見回したけれど、もうあの母親と子供は帰ってしまった後らしかった。



玄関のドアを開けると、朝から動かなかった空気が押し出されるようにして僕の体全体に触れてくる。一日の終わりが近くなってきているんだと安心する。空気を軽く押しぬけて部屋に入った。
朝あんなに暖かかった壁際の床は見るからに冷え切ってしまっていて、僕は路頭に迷ったような気分になった。本棚もベッドも毛布も、朝と変わっていないはずなのにどこか遠くから運ばれてきた物のように見える。けれど空気だけは変わっていないんだと思うことができた。この部屋に満ちた空気は外の空気とは混じらず、僕の帰りを待っていた。


コートを慎重に脱いで壁にかけ、それからスーツの上も脱いだ。アイロン掛けされていないシャツは朝よりももっとみすぼらしくしわまみれで、しかも袖口のボタンがひとつ取れかけている。夕飯を済ませたら縫ってしまおう。けれど僕の右腕は病んでいて使い物にならない。
右腕を見つめ、何も考えず左手の人差し指の爪を右の手のひらに食い込ませた。鋭い痛みが、甚振るようにゆっくりと右腕全体を痛めつけた。


右手から視線を外してから、夕食にしようと惣菜をそれぞれ皿に分け、それから炊飯器のふたを開けた。炊飯のタイマーがセットされていないまま、設定時刻の表示が点滅していた。米はずっと水に浸かり続けてふやけきっている。それを捨ててしまおうか悩んでから、どうしようもないまま左手で炊飯器のふたを閉めた。仕方なく朝食の残りの食パンをトーストにし、左手でそれをかじり、トーストを皿に置いてから次に惣菜を口に運んだ。
惣菜は冷えていたが、一つだけ、唐揚げの餡かけだけはまだ少し温度を保っていた。そろそろとそれを口に運び噛むと、舌の裏にぬるい肉の破片が触れていく。餡は冷めていて、とろみが足りずたらたらと箸をつたって垂れた。べとべとになった左手で、僕はまたトーストを持ち、食べた。


 


食器と左手を洗ってしまってから、アイロン台を床に置き、小さな裁縫箱をその横に置いた。木目模様のある裁縫箱だ。それから着ていたシャツを脱ぎ、そのままアイロン台の上に置いた。薄いTシャツ一枚になってしまったが、感じる寒気は微かだった。ふと思い立ちアイロンも持ってきて、アイロン台の横の裁縫箱とは反対のほうに置いた。コンセントにプラグを差し込み温度を調節すると、温まったアイロンの周りの空気が徐々に温まってきた。左手にもその暖かさが伝わる。
裁縫箱のふたを開けると、表面に積もった薄いほこりが空気に舞った。右腕でそれに触れようとしてやめた。小さな埃に触れるだけでも右腕が痛むかもしれない。埃はしばらく空中に留まってから、するすると床に落ちて行った。きっと朝になったら、日光に照らされてきらきらと輝くだろう。その上に足を這わせる感覚を思い描いた。日光のくすぐったさを思い出す、それから右腕の指の先から広がった痛みも、それで流した少しの涙も思い出す。


手を動かせば何も考えなくてよくなる、と自分に言い聞かせながら、左手で針をつまみ取った。けれど片腕では糸を通すことはできない。一度針を針山に戻し、代わりに糸に持ち替えて、穴に糸の先端を通す。まっすぐに、素直に糸は動き、穴を通り抜けた。あの子供も、あの子供の指もこの糸のようにひどく素直に進んだんだろうか。もしかしたらそのままペットボトルを通り抜けて水に触れてしまうのかもしれない。そして右腕が抜けないまま、左手は母親の手の中に戻っていく。子供は両方の手の自由を奪われる。
糸の長さを確かめてから、また針をつまみ取る。けれど僕の右手は病んでいた。


僕はまだ子供の不自由な両手のことを考えながら、右腕でシャツを持ち上げた。


シャツは軽く、右手に無抵抗に全体を預けた。そのまま右手の指で袖口の取れかけたボタンを探り当てる。針の先と右の指をうまく使ってたるんだ糸を抜き、ボタンを正しい位置に固定しながら、その周りのしわもできるだけ伸ばせるように右手全体でシャツに触れた。左手の針が布に入り、ボタンをだんだんと縫いつけていく。その音が右腕を通じて耳の奥まで届いた。何度もシャツの布に針を突き刺しては抜き、突き刺しては抜いて、その穴を糸が通って行く。
針が動きを止めた。シャツを置いて両手を眺めた。右の中指の腹に赤い玉のような血がぽろりとあった。それはみるみる大きくなって、形を崩してこぼれた。シャツの上には落ちず、それはアイロン台にシミを作った。それを薄めようとするみたいに涙がぼろぼろとそのシミの周りに落ちた。右手が痛かった。右の手のひらも、手の甲も、指先も、関節も、肘も、肩も、皮膚も、骨も、爪の裏も、右腕全体がどうしようもなく痛んだ。血はもう止まりかけていたけれど痛みは続いた。涙も、ずっとたまっていた分が決壊したように、本当にとめどなく流れた。


シャツは相変わらずしわだらけで、そのしわのそれぞれに柔らかな影が落ちていた。


 


いつもと同じ時間に部屋に着き、いつもの手順で部屋に入ると、朝のまま流れの止められた空気が変わらず僕を出迎えた。温く吐き出した息がその中にゆるゆると溶けていくのが、もうすこしで見られそうだった。
僕はもう本当に疲れ切ってしまっていて、何も考えなくていい食事を作って押し込むように食べた。それからシャワーを浴びて、眠りかけている目を薄く開けてパジャマを着て、ベッドに入った。なにもかもよくわからないままに終わらせたけれど、その間ずっと右腕だけは僕を見張り続けるようにはっきりと痛んだ。
シーツに触れる右腕の痛みが薄まっていくのと一緒に、僕も眠ることができた。


 

窓から流れ込む空気はたっぷり外の匂いを湛えていて、じっとりと質量を持って部屋の中をかき回した。僕の吐き出した息からも温度を奪って、冷たく湿って頬に乗る。肺に吸い込んだ空気の感触の違いにやっと気づき、僕が目を覚ましたころに、"彼女"は僕を見下ろした。白のカーテンがばさばさ音を立てて何度も繰り返し翻った。彼女の姿はちょうど窓の前にある。開け放たれた窓と力無く横たわる僕の間に彼女は立ち、何にも寄りかからずに、時折ベッドのスプリングを軋ませた。シーツを伝わってその振動が、空気の乗っていない方の枕に密着した頬と、それから押しつぶされた耳に触れた。弱い月の光を背にたっぷりと用意して、彼女は薄く笑ったように見えた。彼女は外気の密度によって藍色に染められていた。その腕は冷たく、藍色に澄んだ指の先の肉は柔らかいのに、僕の右手は切り裂かれるときのように引きつり、いっそうひどく痛んだ。痛みに閉じた目をやっと開けると彼女の指先はまだ、僕の右腕を見据えるように、その輪郭をきりきりとなぞっている最中だった。彼女の気配だけがしばらく僕の右腕を包んだ。
不意に彼女は、さっきまで僕を包んだその腕を素早く動かし、藍色に潤む長い髪を掻き揚げる。僕の髪は重たい水分を吸い取って落ちたままだったのに、彼女の髪の音は確かに聞くことができた。僕を痛めつけた腕と藍の髪とが擦れ合い、掠れた音を幾重にも重ねて空気に溶けていく音を僕は、聞いたことがある。そして、彼女の綺麗に伸びきった両腕は、僕の右腕を痛めつける。
彼女は僕の右腕を痛めつける。


下半身をベッドに預けきり、彼女はより濃い藍に沈む。僕の位置からでは空気に邪魔されて彼女の表情がわからない。水に体を押さえつけられ、僕は植物のように無抵抗だ。
透明に張った皮膚で彼女は僕の右腕に触れる。やはり変わらずその指先は冷たくて、吸い込む息と一緒に掠れた声が漏れた。冷たさは右腕を回りきるころには熱に塗れる。それでもその鋭さは濁らずに僕を刺した。何度も彼女の指は僕を撫で、痛みはだんだんと濃くなっていく。指の腹が右腕のすべてに触れると次は指全体で皮膚を包み込んだ。右腕の表面で指を返し、小さな木の実のような爪が五つ、優しく皮膚を弾く。痛みが転がるように上ってくる。もう片方の指も返し、小指と薬指の先の線が皮膚を切り、薄くついた肉の間に押し込む。気が遠くなるくらいの痛みはけれど、優しい痛みの中に紛れて見分けがつかない。中指も同じように右腕に入り込もうと力を込める。美しい曲を演奏するように、五本の指が上下する。その音を聞きながら僕はまた一つ空気を吸い込む。彼女はそれを見て微笑んだように見えたが、それとも僕が微笑んだのかもしれない。僕は痛みに体を浸して、芯まで痛みが染み込んでしまうのを待っている。彼女はその僕の顔を見下ろして、優しく右腕を抱く。
僕は右腕全体で彼女に触れる。彼女はその藍色に似合うほどに清らかだ。清らかで、けれどその底には少しの温度を持ったよどみを隠し持っている。彼女はそれを僕に見せてくれる。それは彼女の血液のはずなのに、僕にはそれさえも藍色に見えた。
彼女はその液体で満ちたやわらかな舌で僕の右腕に触れた。
僕は彼女にまた痛めつけられ、呻きはそのうちに別のものに変わっていき、空気はだんだんと濁った藍になってゆく。

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# 008【麻痺】


冬の朝の空気は恐ろしく澄んでいる。肌を全て何かで覆ってやらないと、むき出しになったところはすぐに赤みがかる。手袋と袖の間から、だんだんと赤くなっていく手首が見えた。それは両の手のどちらも同じ事だった。
不健康に思えるほどに白かった手首は、もうほとんど赤色に染まってしまう。
薄い桃色の手袋の端をつまんで、袖の中の方まで引き込んだ。手首はほとんど覆えたが、手のひらの布は変に突っ張って、それはそのまま手の甲に伝わってくる。皮膚がきつく張った時の感覚だった。

両方の手首を覆ってしまうと、止めた歩をまた進め始める。別に急いでるわけではないけれど、すれ違っていく人たちや追い越していく人たちの足音は、なんとなく私を急かしているようだった。それらの足音はほとんど全部同じように聞こえて、ただ澄み切った空気の中に転がった。そしてそれらは凍り付いた道に吸い取られていく。氷はますます厚くなっていく。
私はその氷に足を取られないよう、一歩一歩を意識しながら足下を見つめて歩いた。
私の足音はだけはそのまま転がっていかずに、私の耳の中に全て流れ込んできた。髪に覆われただけの冷え切った耳に少しだけ触れて、あとはおとなしく鼓膜のところまで流れていく。足音はそこからどこにも行けず、私が一歩進むごとに鼓膜の上には音がたまっていった。


耳穴からそれらをこぼさないように、そっと頭を上げる。
車はさっきから一台も通っていなかった。それで空いたスペースを埋めるように、革靴やハイヒールやスニーカーや、いろいろな靴を履いた人たちが歩いている。互いに肩を触れ合わすことのないように、けれど意識は別なところに飛ばして、人々はただ一心に目指すところに歩き続けた。ほとんどの人が耳にはイヤホンを押し込んでいて、視線は足下より少し前に向けている。
この人たちは、ここにいるのに、ここにいなかった。
私はここにはいない人たちの間をすり抜けながら、その人たちが落とした足音でできた氷の上を歩いていた。


ここにいる人がいないのならば。ふと思いついて歩を止めそうになったが、やはり足音に制されてしぶしぶ歩を進める。
ここにいる人がいないのならば、ここにいない人がいてもおかしくないのだ。
私はほとんど無意識の中で頭の中にあの人を思い浮かべることが出来た。あの人の耳の形もすぐに思い出せた。手に取っているように、私にはその形が孕んでいる全ての意味を読み取ることができた。あの人の耳が私は一番好きだ。


頭の中にはあの人の存在を置きながら、けれど私はこの場所から離れることは出来ずに、いつもの道順をなぞりながら路地に入る。そこは車が二台すれ違うのにも苦労するほど狭い道だった。それでほとんど車は通らなかったし、さっきまでの道とは正反対に、歩行者も今は私しかいなかった。両脇には小さな店が並んでいる。個人経営の肉屋とその隣の花屋はまだシャッターが閉まっている。向かいの自転車屋の前にはとうてい乗ることも出来なさそうな、錆びた自転車がとまっていた。まだ町は眠っているように静かだ。それで、人々の足音が転がる音だけが響いているのだ。それらの響きは短く、次々と生まれるものに埋もれるようになりながら氷に変わっていった。
私の足音だけがそうなれなかった。私の足音は、あの人のところに着いたら、そっくり差し出さないといけない。あの人がそれを感じることが出来なくても、きっとあの人にそれを差し出すことは意味のあることだと私は信じていた。だから、私の足音は氷にはならないで、私の鼓膜の上に降り積もる。私はいつでもそれを取り出せる。あの人に忠誠のしるしを差し出せる。


あの人の靴はどんな物だっただろうか。私の靴を眺めながらそう思った。私の靴はさっきからペースを乱すことなく、氷の上を怯えながらそろそろと進んでいた。
あの人の靴は私の靴とは比べものにならないくらい大きくて、その中の足の一部のように堂々としていた。それに隙無く磨き上げられていた。だから私はきっと、たくさんの靴の中からあの人の靴だけを選び出せるだろう。その黒光りした皮の表面から、あの人の情報を全て読み取ることが出来るだろう。それが終えたら、今度はその靴を脱がせて、あの人の足の全体を、両方の足の裏を私の両方の手のひらに乗せるのだ。足音を生み出すその足の裏を私の手の上に。そしてあの人が歩けば、道路の表面に張る氷より先に、私の体があの人の足から転がり出る足音を、全て吸い取ってしまう。私はそれらをこぼさないように、そっと歩く。


あの人の耳と靴をきちんと感じながら、両脇の閉じた店をいくつも過ぎていく。一歩歩くごとに空気に皮膚を削られて、いつの間にかまた手首は赤く変わっていた。伸ばした手袋ももう手首までは覆わず、張っていた甲も優しい柔らかさに戻っていた。もう一度手袋を引っ張って、同じように覆ってしまう。皮膚が張る。あの人の事を考える、あの人が私の皮膚に触れるところを。私の皮膚が突っ張って、きりきりと音を立てるところを。


けれどまだ私はあの人に触れてもらったことがなかった。それなのに私は、あの人のその時の仕草や息づかいやなにもかもを鮮明に思い浮かばせることが出来た。ここにいないあの人の存在を感じることが出来た。私の前を歩くあの人の姿をしっかりと認識できた。あの人の完璧な革靴が、大粒の足音を惜しげもなく生み出しては転がしている様子をしっかりと見ることが出来た。それらが氷に溶けていくのを、目を懲らしてしっかりと見つめることが出来た。視線をあげれば、空気に晒されたあの人の両耳も見つけることが出来た。それを手に取ることだって出来た。


前を歩いていたあの人が歩を止めて振り返る。私よりも数十センチ高い位置から目線を私に振りかけ、私はそれに忠実に答えた。私は数歩あの人に近づき、あの人の足下に跪く。あの人の革靴が目の前にあった。その姿勢のまま、しばらく膝が氷に冷やされるのを我慢する。
膝の感覚が無くなった頃に、あの人は私に声を掛けずに命令する。小さく頷いて私は舌を出す。空気に触れたそれはちりちりと皮膚を削られる、それでもそれをあの人の靴に近づける。



アスファルトに隙間無く貼り付いた氷はごく薄く、その水分を弱々しく主張するように、アスファルトの黒光りを強調させていた。でこぼこや尖りに合わせてそれらは艶やかに形を変え、均一な厚さで覆い尽くしている。半身を支える両の手のひらとそれとの間には手袋の布が一枚挟まれていて、私はそれを脱ぎ去った。直にその冷たさが肌に触れる。空気の入る隙間も無く、それらは密着する。足音ですらそこには入っていけなかった。けれどどちらにせよ、この道路には足音は一つも転がってはいなかった。ここには歩を止めたあの人と跪く私がいるだけだった。連なる建物はみんな眠っている。私は惜しげもなくあの人の靴に舌を這わせられる。そのかすかな音も、きっと彼の美しい耳が聞き取ってくれる。それは足音とは違って、彼の鼓膜に優しく謙虚に染み渡っていく。


舌の先から氷に触れていく。貼り付くように舌が形を変えて、氷は溶けて舌の湿り気の一部になっていった。舌は痺れて麻痺し、少しひくつくとその度にざりざりと音がした。その振動で鼓膜の上の、私の足音が跳ねた。やがてそれらは少しずつこぼれていってしまう。
けれど問題はない。あの人は今ここにいる。私はあの人の革靴を、あの人の足を、あの人の皮膚をこうして舌で感じている。あの人は私の舌を感じながら、私からこぼれる私の足音も見下ろすだろう。私の忠誠のしるしを見下ろして、そして満足して下さるだろう。




私はあの人の許しが出るまで、凍り付いたアスファルトを舐め続けた。


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# 007【冬の風物詩】


火照った手にその冷たさが心地よく、けれど私はおそらくそれを解体して口に運ばなければいけない。そう思いながら、天板の上に力なく置いた手のひらの上にそれを置いて、ずっと眺めている。

下半身をコタツに突っ込んで、ほとんど肩を覆うように毛布を引っ張った状態で、私はどれくらいの時間を過ごしたのだろうか。思い出そうとしても、熱で茹だったような脳ではもう記憶も探れない。ただ目の前の手のひらに一つ置いたそれ、表面はつるつると光沢があって、一面に小さな窪みが散らばっていて、所々は古傷のように突っ張った瘡蓋みたいなものが広がっていて、それからもっと目を懲らすと、光沢の下には黄色がかった透明のカプセルのような物が隙間無く詰まっている、そこから下はそれらがまとまって一枚となった皮を剥かないとわからない、それはみかんだ。私はこれを食べたかった。けれどそれは本当に冷たくて、冷たい部分を忘れてしまった私の体全体がその冷たさを欲していた。みかんはこの季節の物にしては小さめで、それでもみっちりとした重みは確かにあったので、手のひらに押しつけるようにしてその冷たさを私に与えてくれた。重みは、その中に蓄えている水分の十分すぎる量も私に伝えた。思わず唾を飲み込もうとし、そしてもう口の中に残っている水分は無いのだと思い知らされる。ただねばねばとしたものが舌の上に広がっていた。私はそれを確かめるように口の中の壁を舌で撫でた。前歯の裏を舌全体で舐めた。そしてみかんの味とその水分の感触を想像した。それだけでうっとりとしてしまうほど、私はコタツの熱に侵されていた。最強とだけ表示されたスイッチは彼が握っていた。付けっぱなしを防止するために何時間かに一度稼働する自動的な機能停止の度、彼は確実にそれを最強に戻した。稼働音を止めたコタツは休む暇もなく次の稼働音を流し出した。それを何度も繰り返したが、やはりその回数は思い出せなかった。


ぼんやりとみかんに向けていた視線を彼に向けると、彼は私を見ずに、私と同じように私の手のひらの上のそれを眺めていた。彼はずっと私が入っているコタツの横にただ立っていて、彼はそこから私と私の手のひらの上にあるみかんを見下ろしていた。手には最強に設定されたスイッチをしっかりと握って。だれもそれを奪ったりスイッチを切ろうとなんてしないのに、彼は握る手を少しも緩めなかった。彼はその手を胸のところまで持って行っていて、その位置から動かさない。だからなおさら私がそれを奪えるはずがなかった。私の身長では、いくら手を伸ばしても背伸びをしても、彼の胸に触れることは出来なかった。


彼に視線を送り続けると、ゆっくりと私の方を見た。その目は優しく私を見つめているようだったけど、奥の方がどうなっているのかはわからない。彼がスイッチを持っていない方の手で、私に発言を許した。いつこれを食べればいいのかと聞くと、じゃあ今食べなさい、と返す。


ずっとコタツに入れていた方の手を引き抜いて、みかんをその手に取った。熱された手にそれは初め全く馴染まずに、ただただその冷たさで熱を鎮めた。手のひらの表面の熱を吸い取られても、まだ私の体には熱がまわっていた。だから手のひらはたちまち熱に染まって、やがてそれは手の中のみかんにまで伸びていった。それとは逆の左手、天板に置いていた方の手は右手よりはまだマシだったけれど、それもじわじわと熱で赤くされていた。



彼がもう一度、食べなさい、と促す。私は両手を使ってみかんを持ち、迷った末に右手の親指をみかんの中心に突き立てた。皮を破って中に入れる。空気のほとんど入っていない風船から最後の空気が抜けていくような音がして、それと同時に少しの果汁がコタツの天板に黄色い模様を描いた。それは明らかに水分で、私はそれをなめたいと思った。けれど彼からはその許しは出なかった。私は開けた穴からそのまま指を使って皮の下を這うようにしながら実から皮を剥いた。皮と実の間は冷たかった。ずっと中に指を入れていたいと思った、けれど私はこれからこの実をすべて食べてしまわないといけない、彼が見下ろす前で。

皮を全て剥いでしまうと、みかんは薄い半透明の皮にそれぞれ包まれていて、それはむしろ膜と呼んだ方が正しいのかもしれない。そこからは小さな粒が密集しているのが透けて見えた。その一粒一粒が水分だった。まずは実を半分に割って、一方を剥き落とした皮の上に置いた。皮は光沢の面を下にしていたので、さっきまでの冷たさを連想させることもなかった。ただ半分にされた実を受け止め、支えているだけだった。どうか天板から伝わる熱から、まだ冷たい水分たちを守って欲しい。


早く食べなさい、と彼がさっきから変わらない声の調子で言う。実のもう半分から一房取った。膜と膜が優しく離れる音は、冷たいはずなのになにか温もりのような音だった。どうしてかはわからないけどそう思った。その音は彼の声の冷たさとは正反対のような気がしたのだ。そう考えながら、私は房を口の前に持って行ったまま少し止まった。また彼がその冷たい言葉で私の沸騰しそうな脳を冷ましてくれるのを待った。けれど彼は何も言わなかった。彼が口を開くのを待つより、水分を求める体を押さえる方が大変だったので、私は諦めて房を口に含んだ。粘つく口内にそれは本当に久しぶりの水分を運ぶ。あまりにも乾いた舌が、その水分をほとんど吸収した。たまらなくなってもう一房口に入れる。ある程度潤った舌が、その水分を口内に分配する。それが終わらないうちにもう一房口に入れた。口がやっと本来の姿に戻っていくようだった。もう一房、もう一房、そしてもう半分の実に手を伸ばす。きっとこれも全部食べれば、熱に奪われた体中の水分の代わりになる。きっとこの煮詰まった思考も蘇る。満足に動かなくなっていた足も腰もなにもかもがきっと動くようになる。私は実を房に分けるのも忘れて、そのまま口に押し込んだ。果汁が口の端からこぼれて、毛布を汚す。


そして、つらり、と冷たい果汁が気管を滑り落ちる。

途端に私は咳き込む。咳き込めば咳き込むほど、果肉や薄い膜は気管の中に入り込もうとした。口の中に満ちた水分はそれを助けた。けれど私は口を開けなかった、だってこの水分を全て吐き出してしまったら、きっと彼はもう一つもみかんを与えようとは思わないだろうから。コタツをこんなに汚してしまうような子にもう一つみかんをあげるわけにはいかないな、彼の冷たい言葉が私の頭の中だけに響き渡る。きっと今も彼はただスイッチを誠実に守り続けていて、苦しむ私を見下ろしている。その目の奥には少しの熱もなく、ただ冷え切って美しさすら感じるほどの水がたっぷりと流れているのだと思う。私はそれを飲むことも出来ずに、ただ激しく咳き込んだ。

 

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# 006【それがあなただった】

【それがあなただった】

そのレストランは特に個性が強いわけでもなく、かといって全く平凡なわけではなかった。
天井は落ち着いたクリーム色で、シンプルな形の小さなシャンデリアが一つ一つのテーブルを照らしている。それはスポットライトのようでありながら、全体を上手く調和させ、テーブルがずらりと並ぶこの室内に暗いところは少しもなかった。窓からは何の景色も見えない、ただ藍色の一色だけが広がっている。それなのに、窓の外を見つめると奥行きを確かに感じられた。カーペットは彩度の低い緑色で、灰色がかっているように見えるのはその模様のせいだった。じっと目を懲らさないと気がつかない色合いで、唐草模様のような模様が床全体に広がっている。当然それは私の足下も埋め尽くしていて、もしかしたら私をカーペットの裏に引きずり込もうとタイミングを計っているのかもしれないと私は思った。いくら警戒してもいつまでも唐草模様は私の足の裏を擽ることすらもしなかった。
そして自分が足に何も履いていないことに気がつく。確認するように、カーペットに足の裏をこすりつけてみる。しっとりとした温もりが伝わってくる。それでそのまま足の裏はカーペットの上に落ち着いた。
このレストランでは靴はいらないのだ。だってこんなに気持ちの良いカーペットが敷き詰めてあるのに、足の裏を覆ってしまう革靴なんかを履く必要がない。もしかしたらハイヒールのヒールが唐草に引っかかるかもしれない。


自然に瞬きをすると、目の前にすでにボーイが立っている。いつのまに歩いてきたのだろう、そう思い周りを見回してみても、ボーイが出てきそうな入り口は壁のどこにもなかった。ただ藍色を覗かせる窓が変わらずにあるだけだ。


「あの、すいません、くだらないことなんですけど」


「はい、何でしょう」


「今あなたはどこからいらっしゃったんですか? 」


問いかけに、丁寧に揃った指先とその手のひらで、一つのドアを指し示す。それは窓が続く壁にしっかりと馴染んでいる。壁も天井と同じクリーム色だったが、それに馴染んでいるドアは毒々しいピンク色だった。それは長時間圧迫されて死んだ皮膚が剥がれ落ちた跡の、むき出しになった肉の色だ。それなのにボーイが指し示すと、ドアは当然といった顔をして壁に収まる。ボーイはあそこから出てきたのだ。そして私の座ったテーブルを誠実に目指して、静かに歩いてここに現れたのだ。その誠実さを固めるように、ボーイの身なりは冷たさを感じるほどに完璧だった。髪はきちんと整髪料で撫でつけてあって、シャツにはシワひとつなく、革靴はシャンデリアの光をそのまま反射させていた。


「あっ、すいません、こんな格好だとご迷惑ですよね」


私は靴も履いていなければ髪もとかしていなかった。毛先は肩の辺りで不自然にごわついていたし、指先は乾燥して反れかえった、根本には血が滲んでいるささくれがある。その血はあのドアのピンクとは比べものにならないくらい鈍い自然の鉄の色だった。
素肌に一枚だけ身につけているワンピースは胸元に小花が散らばったデザインで、あまりに繊細さに欠けた洋裁で仕上げられていた。それは私が子供の時に母が作ったワンピースだ。私はそれを一度も着なかった。
そして私の格好はあまりに粗末だった。


「いえ、いえ、どうかお気になさらないでください。ここは身なりなど気にするべき場所ではないのです。それにお客はあなた様しかいらっしゃらないのです。どうかその足で、当店自慢の唐草の感触を味わってください」


ボーイは若い見た目とは裏腹にどこか老人のような香りのするしゃべりで私を説き伏せた。私はろくに返事も出来ずにただおずおずと頭を下げた。微笑みを送ろうともしたがただ顔が引きつったようになっているだけな気がして、顔は少し下げたままにしていた。ボーイは気にしない様子で、そのままそのピンクのドアを開けて出て行ってしまった。


仕方なくまた部屋全体を見回す。確かに広い部屋にたっぷりと並べられているテーブルには誰一人も座っていない。シャンデリアは調子を変えず光を放ち続けている。耳鳴りがするような静けさはいつまで経っても破られなかった。なんど首を限界まで回して部屋を見回しても、何も変わらない様子だった。何も特筆するようなものは無い気がしたし、けれど全てがどこかおかしい気もした。
ただ、そこは紛れもない、レストランだった。
そして私はただ料理が運ばれてくるのを待っていた、あのボーイの手に汚れのないまっさらな皿が乗って、それに盛られた料理が運ばれてくるのを。



やがてボーイはドアから料理の載った皿を運んできた。私のテーブルからはまだその料理は見えなかったし、匂いも届いてこなかった。
ボーイは迷わず私の元へ歩いてきて、無言のままテーブルに皿を置いた。そしてすぐさまくるりと向きを変えて、ドアに吸い込まれるようにして部屋から出た。
いつのまにか私の手にはナイフとフォークが握られている。私は少し戸惑ってからそれでもその料理に向かった。ほとんど球体に近い形をしたハンバーグだ。ソースや香辛料はかかっていない。付け合わせの野菜も無かった。ただ白くて汚れのない平皿に、てっぺんが大きく盛り上がったハンバーグだけが乗っている。作りたてで湯気がもうもうと立ち上る。それは躊躇せずにシャンデリアの光にその身をさらし、やがてキラキラと空気に溶けていった。


ナイフでまずハンバーグを真ん中から二つに割った。すぐに皿に液体が広がる。その液体を私は知っていた。そのままの向きで見下ろすと透明で表面はてかてかと光る油の薄い膜に覆われているのだけれど、少し角度を変えて覗き込むと、それはとろみのある赤い液体で、鉄の匂いが蒸したように空気に押し出される。ナイフを導く指先のささくれをもう少し引っ張ると、きっとこれに近い色の液体が滲むのだろう。
二つに割れた片方をさらに半分にしようとナイフを突き立てる。すると何か、刃の中腹に引っかかりがあった。私はそれをフォークで器用に掘り出して、皿の液体で汚れていないところにこすりつけるようにして置いた。皿と金属が触れ合って、かちりと部屋中に響き渡った。それは部屋の温度を何度か下げた。いっそうハンバーグから立ち上る湯気が色濃くなった。シャンデリアを湿らせ、クリーム色の天井にはやがて色とりどりのカビが生えてくるだろう。
皿に置かれたのは爪だ。右足の薬指の爪。丸みを帯びていて、両端はくるりと巻かれている。彼の両足の爪はひどい鬼爪で、いつも良い爪切りやらヤスリや負担の少ない靴を買ってきては、それらをすぐに諦めていった。それで彼は歩くたびにちくちくとした痛みに耐えなければいけなかった。薬指はまだ我慢できるんだよ、と彼は見た目にそぐわない乱暴さを帯びた口調で訴えた。親指なんかは本当にひどいんだぞ、お前にはどうせわからないだろうがな、なんだお前は、そんな嘘っぽい同情でそんな顔をしやがるのか、そのいかにも健康そうな足をもって俺の足を見下ろすのか、俺を見下ろすのか。私は彼の不健康な爪を口に放り込んで噛んだ。それはしつこく歯につき、くちくちと弾力のない音を立てながらやっと細かくなった。けれどそれでも私の喉を通りすぎるとその尖りで私を傷つけようとした。
引っかかりを取ったハンバーグをさらに切り分けていく。かちりと音を立てて刃を止めたのは彼の歯だ。下品に肉を噛み千切っていたあの歯。それをフォークの上に転がして、慎重にそのまま飲み込む。すこし引っかかりながらもそれは私の胃に落ちる。わたしはまたナイフを動かす。


だいぶハンバーグは細かくなった。それぞれの破片に彼の肉体が詰まっているのがわかった。白い皿の上で、それは今更美しく映えた。きっとシャンデリアの光のせいでもあるのだろう、隅々まで入り込んで照らし出す光に彼は身をよじらせた。無駄だとわかっているはずなのに。ここはレストランで私はお客であなたは運ばれてきた料理なのだ。肉の色をしたドアの中から出されたばかりで湯気を吐き出す、まだ十分な体温と水分を含んでいる肉片が、あなただ。


一本はみ出た髪の毛を引っ張る。それは真っ直ぐに抜けて、私の胃に落ちていく。ほかの肉片にはあなたの髪の毛はないだろうかと、ゆっくりと時間を掛けながら、切り分けたハンバーグの切り口を探す。広い皿の上でひとつひとつ転がしてみる。薄い皮が飛び出していて、それをフォークに引っかけると、それは頭皮だった。髪の毛も3本付いていた、そしてすぐに私はそれを食べる。


喉の内側に髪がしつこく貼り付き、水が欲しくなる。けれどこのレストランにはあなた以外なにもない。

一口分くらいの大きさに切り分けたハンバーグにナイフを突き刺し、それを目の前に持ってくる。まだしみ出してくる液体はあなたをぬらぬらと光らせる。それがシャンデリアの光を反射したものなのか、それともボーイの靴のシャンデリアの光の素直な複製が反射したものなのかはわからなかった。そのままあなたを飲み込んだ。濃厚な酸っぱさと甘さと塩気と鉄の鈍さとそれからいくつかの固いものを舌で感じながらゆっくりと咀嚼する。あなたは抵抗しなかった。


もうひとつ、同じように口に入れる。眼球の感触は肉の中で際だって、いつまでもそのつるつるとしたところを味わいたいと思った。あなたの目つきはとても悪かった。特に私を見る目はとても醜かった。


もうひとつ。肉片をかき分けるとかさかさに乾燥しきった唇にあたった。それは私の舌に未練がましく貼り付いた。いくら口の中でもごもごとしてもまた貼り付いた。タイミングを見計らって、奥歯で思い切り噛み潰した。


もうひとつ。ぺこぺこと奥の方で音がして、それは耳がくしゃくしゃになっているものが出していた音だった。その音は私の口の中で響いて、食道を通って胃にまで届いたかもしれない。前歯で少しずつ噛み千切りながら飲み込んだ。ぺき、ぺこ。


もうひとつ。あまりにバラバラにされてしまって初めはわからなかったけど、この肉片に入っているのはあなたのくるぶしだった。いつも長い靴下に覆われて、輪郭をなぞることしかできなかった。あなたは私が跪いているような姿になっているのを見て、機嫌を良くした。けれど今はあなたのくるぶしはこんなにバラバラだ。舌の裏にざらざらとした感触が広がった。


もうひとつ。形がそのまま残った乳首が二つ。なんだかあまりにも滑稽な気がして、咀嚼をしながら笑ってしまう。結局は私の胃に入ってしまうのだからなんでも同じ事なのだけれど。

もうひとつ。この肉片は他の者と比べて何だか嫌な匂いがして、けれど我慢して口に押し込んだ。押し込まれた数を数えればきっとそれはきりがないだろう。これが私の中に入ったときのことは恐怖と不快感でどろどろした記憶として私の中に残っている。それはいくつもあった。けれど私はいまあなたのそれを食べてしまっているのだから、きっとそれも忘れてしまえると思う。


もうひとつ。あなたの舌。ほどよく湿っていて暖かい。
けれどそれをゆっくり感じる暇もなく私はそれを噛み切って、咀嚼して、それから飲み込む。


これでハンバーグはすべて私の胃の中に収まってしまった。


それでもボーイはやってこなかったので、周りを伺いながら、皿に残った液体を指で掬って舐めた。脂肪の香りが鼻に抜けた。
もう一掬い、と手を伸ばしたところで、私はひどく咳き込んだ。喉をしごくような音が室内に響く。クリーム色がそれを少しずつ吸い取っていく。


 

最後の咳で、喉の奥からひとつ、ちいさなものが転がり出てきた。あわててそれを受け止めようとする。それは彼が指に付けていた指輪だった。いつか、彼がおそろいで買ってきてくれた物だ。彼はその時、それをやさしく、まるで私の指を折ってしまわないか怖がるように恐る恐る、薬指にはめた。そしてそのあと自分の指にもはめたのだ。指輪は私に受け止められずにカーペットに落ちていく。



灰色の唐草がカーペットから這い出て、指輪を引きずり込んでいった。
シャンデリアの光はいつまでも消えないまま私を照らしていた。そこには食べ終わった跡の汚れた皿も置いてある。それなのにボーイはいつまでたっても現れなかった。何度瞬きをしても駄目だった。部屋を見回すと、クリーム色の壁にあったはずの肉の扉までもがなかった。私は肉片を、食べた肉を全て吐き出そうとした。けれどそれはただ、ワンピースの小花に染みを付けるだけだった。



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# 005 【銀色の宝物】

 【銀色の宝物】

授業が終わると、一斉に教科書を閉じる音がする。それは代わり映えのしないチャイムの音に彩りを与えようと飛び回るが、けれどそれも空しく、薄く埃の積もった床に落とされる蝶の羽の音だ。どんな色も表現できずに羽を閉じて落ちていく蝶、その羽を閉じる音は教科書の音と同じだ。ばたん。チャイムが鳴り終わってから、私一人だけでもう一度その音を奏でる。蝶は仲間の死骸が降り積もったその上に、やっと羽を閉じて落ちていく。


昼休みの時間になった。


今日の弁当箱はひどく軽い。


教科書もノートも無造作に重ねて、そのまま机に放り込んだ。けれどほとんど間を置かないで、それらを取り出してまた机に置く。今度はきちんとゆっくりと、1冊ずつ表紙を閉じていく。あまりにもゆっくりで、表紙から手を離すまでに、授業の内容を書き留めた文字を全て目で追えた。けれど理解は出来ない。したくなかった。分厚い教科書をまたゆっくりと時間をかけて閉じる間も、その中身に目を通した。けれどその内容は、自分の字よりもっと、理解したくない物だった。私は目を閉じないで、けれど教科書の中身は見ないで、頭では一昨日の授業中のノートの落書きの事を考えた。私の席は一番後ろだ。そこからは教室の全体が見渡せた。授業中はよく、後ろ姿をデッサンした。どう頑張っても授業中は背中しか見えない。教師だけは全体を晒しているけど、黒板の方に頭を向けたくなかった。その理由はあまりにも幼稚だ。勉強をしたくない。教科書を理解したくない。教科書を理解することで、学校の一部にはなりたくない、みんなと同じ考えを一瞬でも共有したくなかった。それをした瞬間にきっと、私はただの蝶になる。何の色も描けないままに羽を閉じて落ちていく蝶。チャイムはそれも気にせず決まった時間に鳴る、そしてみんなはそれに従う、学校はそれに従う。みんなはただの蝶のまま薄汚れた床に落ちても気にしないのだろう。チャイムはいくらでも鳴る、学校がある限り。だから彼らは何度でも教科書を開ける。教科書を閉じることが出来る。床に落ちることが出来る。


けれど私は色を描きたかった。


だから私は勉強をしたくなかった。
私はそのことに、この学校に来てから気がついた。
だから私は、今まで学んできた事をすっきり忘れてしまいたかった。
教科書の事なんて忘れてしまいたかった。



机の中にそれらを収めてから、昼食をとる場所に向かう。仲が良い友達同士が固まって昼食をとる。教室は授業中の冷たい静けさを忘れたように、一体感のないざわめきで満たされていっていた。もうすぐそのうるささも教室一杯になる。
意味のない会話をしながらそれぞれ弁当の包みを開く。けれど私は開かない。それはあまりにも自然で、友人たちは何も言わなかった。多分気付いていないのだろう。彼女たちはおしゃべりに夢中だった。安っぽい色でべったり塗られた共通の話題は私を本当に不安な気持ちにさせた。それは蝶の死骸の標本に塗られた色だ。その標本は偽物です、それには人が作った顔料が塗られているんです、本当の蝶はもっと美しいんです、飛び続けた蝶が振り落とす鱗粉の色は、それはもう宝物のように美しいんです、だからどうかそんな悪質な偽物に惑わされないでください、あなたたちは本当は、本当は。私はそんなことを一人思いながら、彼女たちの話題に加わってはまた離れる。不自然には思われない。羽を閉じた、彼女たちも私も同じ死骸だ。彼女たちが羽を閉じて落ちていく姿は美しかったのだ。私は知っている。顎を引くようにして膝に視線を向ける。そして今度は呟いてみる。あなたたちが羽を閉じて落ちていく姿は美しかった、私は知っています。
けれど彼女たちは色を描けないまま色を塗られてしまった。彼女たちは死んで色を塗られ、また羽ばたく。また色は塗られる。だから彼女たちの薄い羽には幾度も幾度もべったりともたつく顔料が塗られ、それはどんどん重くなる。色が乾いてひび割れて、いつかその偽物の美しさはぱらぱら落ちていく。そして薄汚い床と同じ色になった羽に薄く埃が積もる。私は彼女たちを救いたかった。


けれどそれ以上に、それ以上に私は色を描きたかった。死んでも生き返って、今度こそ、いつか、本当に美しい鱗粉をまき散らして色を描きたかった。


他愛もない会話の中で実に器用に彼女たちは、少なすぎる昼食を食べ終える。そしてチャイムはなっていないのに、別の教室へ行って教科書を開く。色とりどりのペンが詰まった筆入れから目当てのものを掘り出して、黒板に視線を集める。彼女たちは授業以外でも知識をほしがった。教師は授業以外でも知識を与えたがった。だからこの学校は、本当にたくさんの蝶が集まった。そして授業の終わりにはたくさんの蝶が死んだ。それに授業以外でも教科書は開かれ、閉じられ、蝶は死んだ。


授業以外には知識を欲しない者はごく少数で、そのひとたちは昼休み中ずっと教室で会話をするか、グラウンドで体を動かす。私は知識を得に行った人たちが座っていた机をぼんやり眺めながら、やっと弁当の包みを開いた。明らかに軽すぎるそれは、膝においても安定せず、包みのどこかを引っ張って結び目をほどくたびにふわふわと膝から浮いた。蝶のようだと思った。蝶は軽い。


彼女たちの弁当箱よりは大きいふたを開けると、銀色をした玉が2つ入っていた。それはおにぎりを包むアルミホイルにしては軽すぎるし、小さすぎた。ふたを机の上にそっと置いてから、その手で弁当箱を持った。やはり全体でも軽く、それは蝶を掴んでいるような気分にさせた。抵抗はしない、羽も動かさない。もしかしてこの蝶は死んでいるのかもしれない。授業を終えてそのまま死んでしまった蝶が、私の昼食とすり替わってしまったのかもしれない。箱を掴んだまま左右に揺すると、その二つの玉は箱の底をころころと走った。壁にぶつかるとそれは素直に跳ねて、また底に落ちるときは軽い音をたてた。ああそうか。これは蝶ではない。これは蜜だ。この二つの銀色の玉は蝶が吸う蜜だ。銀色の二つの玉は、玉と呼べるほど綺麗な球の形はしていなかった。一方は少し細長く、もう一方は一カ所が変にへこんでいた。それに表面はでこぼこしていて、二つがぶつかるとたまに、互いに引っかかりもした。

けれどこれは蜜だった。今では完全な美しい球で、歪みも傷も無い。それは液体だ。けれど手で触れるとそれは固体のように形を持っていて、きちんと手のひらに球体のまま収まった。表面は艶があった。その艶は、色のついた美しい鱗粉のもとになる。色を描く蝶にとってこの蜜は宝物にも等しい。蜜を吸えば私は色を描く蝶になる。その球は蝶が口吻を差し込むとたちまち液体に変わる。けれど蝶の羽をぬらしてはいけないので、液体になってからまた玉にもどる。それは私の手のひらの上で小さな玉になる。手のひらを軽く揺すると、それらはぶつかり合って、かつん、かつん、と小さな音を立てた。それらは玉に液体に戻って、小さな玉同士が合わさってそれは一つの玉になった。私はその様子を見ながら蜜を吸った。私はそれを想像しながらアルミホイルの塊の玉を口に運んだ。


歯に波が走る。それは脳のどこか、例えば記憶を溜めた泉まで走っていって、それに波を立てる。記憶はこぼれ出す、私は今まで覚えた教科書の内容を全て忘れる。知識を得についさっき教室を出て行った彼女たちを思い出す。けれどその記憶もすぐにこぼれて行ってしまうだろう、その液体はこの教室の薄汚れた床に広がって、彼女たちの羽を塗らす。彼女たちの羽に塗りたくられた色は溶け出す。けれど彼女たちの羽はびしょ濡れだ。もう二度とその羽は空を飛べない。鱗粉ももう全て洗い流されてしまった。けれど彼女たちは知識を求める。私は知識をまたひとつこぼした。アルミホイルをかじり続ける。それは何度も何度も歯に刺激を与えて、それが脳まで伝わる。その刺激は私を自由にさせる刺激だ。勉強は全て忘れる。それがいい、それで私は学校の一部にはならない、あの人たちのようにお決まりの大学には行かない、私は色を描く。みんなが床の上に横たわっている、その上を私は飛ぶ。そして色とりどりの、本当に美しい、ちっとも汚れていない鱗粉を振りまく、それで色を描く。私はアルミホイルにいっそう強く歯を立てた。前歯でそれをちぎり取って奥歯で噛む。さっきよりもっと強い波だ。記憶の泉が揺さぶられる。
私はそのままアルミホイルを飲み込んだ。そしてもう一口、もう一口。私はアルミホイルを食べるのを止めなかった。チャイムが鳴って、彼女たちも教師もグラウンドで運動をしていたひとたちも、教室に入ってくる、彼らの死骸を踏みつけながら。


けれど私はアルミホイルを食べるのを止めなかった。
私はもう一つのそれに手を伸ばした。

 

 

 

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# 004【白い粉の食事】

 
【白い粉の食事】



蛇口をひねると、どこから出てきたのかと一瞬、わかりきったことを改めて考え込んでしまうくらいの量の水が、溢れるように流れた。冷えて澄んだ空気を巻き込みながら、小傷だらけで鈍く光るシンクに受け止められる。もしこの水が何かに汚染された水道水なのだとしても、今のこの空気に触れて、どうしようもなく交ざってしまえば、それで全て澄み切ってしまうのではないかと思う。
それでもこの水道はいつもうっすらと埃がかかったようにぼやけて、それは一瞬では汚れと気付かれないけれど、それでもやはり汚れだった。これほど澄んだ空気に晒されて、こんなに澄んだ水が流れているのに、それでもその水に触れたら、その手までは澄んでいかない。手に跳ねた汚れを水で流すと、その水の冷たさに、突き出された肘から下がぴくりと痙攣するように反応した。
水滴が跳ねる音を聞きながら、流した手にたわしを持つ。掃除をしろ、と命じられたわりには、ここの水道にはこのたわし一つが無造作に放られているだけだった。ここの掃除にはたわしは向かない。それはどうしても、シンクに小さな傷を付けてしまう。それでもここにはそれしかないのだし、私は早くこの掃除を終わらせて帰らないといけないのだ。さっきから冷たい風がほとんど吹きさらしになっている廊下には、私が水道に向かったときから一人の生徒も通っていない。それを目立たせようとでもしているように、壁を一枚挟んだグラウンドの方からは何か賑やかな声がたくさん聞こえてきた。
私には関係無いのだ。私はこの水道を掃除しなければいけない。

けれどそれを早く終わらせてしまったって、私はべつに、次にやることが決まっているわけではなかった。


開け放った窓から入る風をうけながら直立していたクレンザーの容器に手を伸ばす。濡れた手にもそれは上手く収まって、逆さにされて、花模様の口から白い粉を吐き出させられる。容器の中で粉の柔らかい塊が上下する音がする。
粉の上に水を少し切ったたわしを押しつけて、円を描くようにまずは泡立てる。それからそれを全体にのばしていった。直角になっている角にも、黒く汚れが溜まって層になっている四隅にも、たわしの固い茶色の毛の先は、クレンザーの泡を押し込むことが出来た。鈍い銀色と腐った茶色が、灰色がかった白い泡の中でお互いをこすりつけ合った。それなのにその行為はあまり音を立てずに、静かなまま進んでいった。それは私を、なにか秘密めいたことをたった一人でしているような気分にした。早く掃除を終わらせないといけない、と私は思った。

「そのクレンザー貸してくれない?」

異様なほどに前のめりになって目を懲らす私に、彼はごく自然に声を掛けた。粉を全体に振ってから窓際の棚に戻したつもりになっていたのだが、クレンザーはまだ私の左手の中に、すっぽり収まっていた。そして彼の視線はそこから動かなかった。彼は確かにクレンザーを欲していた。彼はそのクレンザーに、私の手の中のクレンザーだけに、誠実な視線を向けていたのだ。

「…はい。」

戸惑いを見せないよう意識しながら返事をして、すぐに左手を差し出した。彼は左手の中からしっかりクレンザーだけを選んで、抜き取った。窓際の古ぼけたベニヤ板の棚の中には、まだあと3つクレンザーが残っていた。それらは全て、彼の立っていたところより私の立っていたところに近い場所に、固めておいてあった。全て新品だった。けれど私が変わらず掴んでいるたわしはひどく使い古されて、時々、シンクに散らばった短い抜け毛を水で流してしまわないといけなかった。

彼は私のクレンザーを選び出してから、右手で私の左手から抜き取ったそれを左手に持ち替えた。彼は私の左隣に立っていた。廊下には相変わらず冷たい風が吹き込んで、開け放った水道の正面の窓からの風は途切れ途切れに、やっと私の顔先まで届くくらいだった。きっと彼の顔にも届いているのだろう。

彼はきちんと着こなした学生服の上着の右のポケットから缶切りのようなものを取り出した。彼の右腕を縁取る学生服の袖と、ポケットの布地とが擦れ合う音を、私は少しも聞き漏らさなかった。シンクの中では、クレンザーの泡と一緒に表面に浮き上がってきていた汚れが、ピンク色にてかてかと光る模様を描いている最中だった。はやくたわしで擦って水で流してしまわないと、それはシンクに貼り付いて、汚い汚れになってしまう。けれど私は彼の右手の缶切りのようなものを見つめずには居られなかった。
それは私たちの世代が見慣れていないだけで、他の何でもなくただの缶切りなのかもしれない。けれどそれには汚れや手の垢や缶詰のシロップやどろどろとした液体などが染みこんでいるようで、まるで発掘された古代の宝剣のように見えた。
彼はそれを少したどたどしく、けれど絶対に過ちは起こさない役目を自らに課しながら、クレンザーの花形を切り取った。それはあまりにもあっさりと取れた。缶切りなど必要なかったのではないか。けれど彼には缶切りが必要だったのだろう、そしてこれからも必要とするのだろう。間違わずにさっきと同じ上着の右側のポケットに、慎重そうに缶切りをしまった。取ってしまった花形もそれと一緒にしまおうとしたのだろうか、けれどそれだけはポケットからこぼれ落ちて、なんとかシンクの中に転げ落ちた。シンクと共鳴して、音がふわりふわりと響いていた。

彼はその音を少しも耳に入れないままに、今度はズボンのポケットに無造作に手を突っ込んで、スプーンを取り出した。彼はそれで筒の中の白い粉を一杯すくって、そのまま口に入れた。そのスプーンは大きくもなく小さくもなく、何処にでもあるような銀色のスプーンだった。そのまま引き延ばしてそれに細かい模様を付けただけなのに、それが彼にはとても似合った。彼の容姿は、高校生にしては地味な部類に入るのだろうし、制服も全く着崩していなかったのだが、缶切りだけはまるでアンティークのようにずっしりと重そうだった。私の手の中で水滴をだらしなく垂らしているたわしとは比べものになりもしないだろう。クレンザーをふるってからその泡でいくら擦っても、このたわしではあの重量の中に解け合ったとてもたくさんの要素を剥がし取ることは出来ないだろう。

彼はクレンザーを口に入れて、何もなくなったスプーンを持つ右手は自然に体の前にあるまま、左手にはクレンザーをしっかり持って、それでいて口の中のクレンザーもしっかりと、もし咽せこんでもこれだけは吐き出さないのだ、と訴えるような必死さで、咀嚼した。必死さの中には、飢えや欲望に似た、もしくはまさにその感情が包まれているのだろうと思う。

彼はかみ砕いたクレンザーを一気に飲み込むと、また同じように、けれど今度はもっと大きな口を開けて、クレンザーを食べた。スプーンの全てを覆い込んでしまうように、けれど元々の上品さを捨てることは出来ずに、彼はひとくちひとくち、鼻で息をしながら貪った。目の奥はとても静かで、蛇口をひねれば出てくる、澄んだ群青色の水のようだった。その水は汚染されてはいるけれど、その汚れは澄んだ空気とクレンザーと一緒にたわしを擦れば、簡単にするりと落とすことができた。けれど、やはりどんなに丁寧にしても、小さな傷が付いてしまうのだ。


彼の口腔は今どうなっているのだろうか。やはり無数の小さな傷に覆われてしまっているのだろうか。血が薄く滲む粘膜は、ピンク色の膜が張ったシンクと同じように、てらりと光るのだろうか。その血で白いクレンザーの粉のひとつぶひとつぶは染められるのだろうか。血はクレンザーと、それを頬張るときに一緒に飲み込んでいる澄んだ空気で、きっと美しく透明になるだろう。蛇口をひねれば彼の、少しの濁りもない血液がはじけるように流れ出る。私が磨き上げたシンクの上にそれは玉のようになって広がる。もうシンクは曇らない。血液を缶切りに塗り込もう。缶切りの重量は血液に全て吸い取られて、その重みは彼の胃の中のクレンザーたちが全て吸い取ってしまう。彼はその重みで、シンクから溢れ出た彼の血液で満たされようとしている床に突っ伏す。私はその左隣に立って、蛇口のすぐ下に両手を持って行く。そしてその両手を清める。それはたちまち澄んで透明になる。いつの間にか醜いたわしも染められて、毛には力がみなぎり出す。彼は傷ついた口腔から、うめき声も出すことが出来ない。


けれど全て彼が悪いのだ。人間にはクレンザーは向かない。それはどうしても彼を傷つける。



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# 003
 【遅れた一度とずっと】


「だからって、一日遅れる理由にはならないわよ、ねぇ」
夕焼けをすぎて暗くなり始めた道を、彼女はいつもよりも早足気味に歩いた。少し間をあけて、彼女の隙のない着こなしの服が車のライトで照らされてはそれが過ぎていくのを見守りながら、後ろをついていく。
「大事な恋人の誕生日のお祝いが遅れるなんて、ありえないわ」
歩幅は変わらず、歩を進める足に力を込めるように、靴音をたてる。けれどその行動も、例えば彼女の苛立ちとか、浅い怒りを表している訳ではないのも、ちゃんとわかっている。肩に掛けたバッグに添えるのと反対の手には、きちんと僕があげたばかりのプレゼントの入った紙袋をつかんでいる。
彼女の性格と今までの経験から考えて、彼女が今日本当に怒っているのなら、その紙袋はもうとっくに引き裂かれているはずだった。すれ違う車が近づくたび、彼女はその紙袋を握る手に力を入れた。そのたび細い指の先の完璧なマニキュアに光が反射した。

「ねえ」
振り向かずに彼女が言った。この道は狭くて、二人横に並んで歩くことが出来ない。だからいつも、二人きりで駅まで歩くときは、この道は通らなかった。狭いくせに、車の交通量だけは多い道で、照らしては通り過ぎる光で目がちかちかするようだった。けれど今日はちょうどよかった。彼女は結局、僕みたいな人間には眩しすぎて、暗くなった一瞬に響く足音だけで十分なほどだから。それに、次に明るくなったときも、彼女は僕をおいて歩いていってしまったりはしていないし、プレゼントもちゃんとその手に持っていてくれているのだ。

また、車が通り過ぎて、薄い暗闇になる。

「…、う」
足跡が止まって、それに僕が反応できない間に、彼女がすらりと振り返る。思わず声が漏れた。明るい色の髪が、暗い中でふわりと浮いて、また肩に掛かった。
「…どしたの」
「答えてって言ってるの!さっきから聞こえてなかったの?私の話。」

さっきまで行き交っていた車が、嘘みたいに姿を消していた。そういうのも空気を読むものなんだろうか、そう考えて、それに目の前の彼女がなんだか可愛くて、笑ってしまう。
「何で笑うのよ、」
暗くて表情がわからないまま、彼女はこちらを向いたままだ。

「いや、見てるとね、可愛いなって思って、あなたが」

「…あっ、そ、う」

「うん、そうなんだよ」

車はまだ通らない。遠くからにぎやかな音が、冷たくなってきた風と一緒に流れてきた。光も足音もないけれど、彼女が目の前にいることはわかった。風邪になでられて、紙袋のこすれる音だけが、途切れ途切れだけれど、消えることがなかった。
正直、彼女が喜ぶ贈り物なんてわからなかったのだ。頭が切れて、人気者で、キレイな、完璧な彼女に、僕から差し出せるものなど無いような気がした。何を持っても様になる彼女に、何をあげても余計なんじゃないかと考えると、贈り物を選ぶどころの話ではなくなっていた。

「…ねえ」
「はい?」

今度はすぐに返事を返した。彼女の周りの空気だけ、一瞬ふっとゆるんだようだった。

「なんで遅れたのよ、…別に傷ついたとか、そういうんじゃないのよ?…でも」
わかってる。あなたはそれくらいで傷つく暇もなく、人生を生きている人だから。

風が通るだけで、暗闇で彼女の表情はわからない。
「だから、さっきも言ったけど。…あなたがね、ちょっとしょんぼりしたり、それでいてわくわくは忘れられなかったり、じれったく感じたり、拗ねちゃったり、…そういう顔をするのがみたくて」

車が一台、ゆっくりと通り過ぎた。力を込めた彼女の手に、ライトの光が重なった。
照らされた彼女の表情も、どこか力が入ったようで、どこか拗ねている子供のようで、そのうえ頬をそめて僕のことをまっすぐに見つめた。光が通り過ぎた後も、目はあったままはずれなかった。

「そんなこと、さっきは言わなかったじゃない」

「そうだっけ?」

思い出したように、車が何台も通り過ぎていった。

「言ってない」

言い捨てるようにそう言って、彼女はまた、どこか優雅に体を回転させて僕に背を向けた。

「…もしかして、やっぱ怒ってんですか」
そんなことない、と即座に否定してみせてから、足音が響き始める。それはさっきよりも暗さが増した空気に、あまりにきれいに溶けた。それと彼女の声を聞き逃さない間隔を保ちながら、同じ早さで後ろをついて行く。

「怒ってないわよ」

彼女の声は確かに怒っているときのそれではない。それに足取りはあまりに軽やかで、この状況には似合わないような気がした。空気にはよくなじむけれど、周りのざわめきからは一人綺麗に浮き上がる。つまりはその問いかけによって、この空気とその中の彼女をより深く感じようとした、僕の意図は上手く働いた。
いつも強気な彼女がじらされる姿は、多分僕しか知らない、彼女の一番可愛い瞬間だろうと思う。

「…怒ってないならさ、拗ねてるの?」

周りの空気ごと、彼女の歩みが止まった。
「…どしたの?」

完全に追いついてしまう前に、自然に歩を止めた。僕の足音も止まったのが聞こえたのか、焦れったそうにかかとで地面を踏みつける。

「…っもう、ちょっとは考えたらどうなの」

振り返らないまま、早口に彼女が言う。

「あなたの気持ちを?」

背を向けたまま彼女が頷く。

「そうよ」

車は相変わらず途切れない。今度ばかりは空気を読んでくれはしないらしかった。

「…嫌われちゃったのかと思ったのよ、昨日」

紙袋の存在を確認するように、二三度手に力を込める。

「君が今日、余りに普通にプレゼントを渡してきたから、すごくほっとしたけど」

しばらく沈黙が続いて、それでも彼女は歩き出さなかった。
プライドの高い彼女が唯一知っている、甘えるのに近い感情を表す方法がそれだった。
何かを待っているように、まだ彼女は歩き出さない。

「…きっとさ、」

僕が口を開くと、紙袋がかさりと音を立てた。彼女の耳には僕の声が届いているだろうかと、ふと不安になる。けれどそれはただの徒労なのだ、少なくとも今日だけは。

「この先何年も、何十年も、…あなたがおばあちゃんになっても、お誕生日は僕が祝うだろうから」

「だから、一回くらいはこういう誕生日もあって良いじゃない?」

どこか遠くから、車がクラクションを鳴らす音が聞こえた。その残響が周りの音にすっかり上塗りされた頃に、彼女が口を開いた。

「…じゃあ、来年も、…その次の年も。期待、してる」

また美しい足音が、空気に響きだした。それに、紙袋の擦れる優しい音も混じる。多すぎるくらいたくさんの音が混ざる中で、完全に暗くなってしまった景色の中で、僕の目の前を変わらず歩く彼女は相変わらず綺麗に映えた。

それは多分、何度誕生日を過ぎても、変わらないのだろう、ずっと。
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# 002

【ぼくがかんがえたじゅんあい】

大学の友達にはき出したら、そのままその空気は沈んで落ちていって、忘れ去られてしまった。親にはき出したら、しまったと思った次の瞬間、母は泣いていた。
つまりは、この問題は人に話してはいけないものだったのだろう。

≡≡≡

けれど後悔は出来なかった、だって私は。
いつもの相談相手に「愛したい」と呟くと、彼は顔を赤くして俯いた。


駅前の何の個性もないカフェのボックス席に、2人だけで座るのがいつもの定番だった。混んでいるときは空くまで待ったし、家族連れが順番を待っているときも絶対に譲ったりしなかった。何の意味も無く、ただ、初めに彼に話を聞いてもらったときに、たまたま空いていた席がそこだったから。私はなんのためらいもなく真ん中に陣取って、彼はその向かいの席の奥の方に座った。そのあと私の視線に気がついて、少し照れながら彼は私の正面まで体を滑らせるようにして移動した。その姿はなんだか少し情けないようだったけれど、私はそんな彼が私を受け止めてくれる気がして、大きすぎるメニューを手渡したのだ。笑いかけながら。
頼んだカフェオレとアイスコーヒーがテーブルに置かれる頃には、私も彼もその席になじんでいた。カフェの全てとは混じり合わず、その中だけで物語は進んでいくのだろう。そんな確信を抱いて、まず私はアイスコーヒーのストローを抜き取ってから、喉を潤した。

彼はストローに視線を向け、一度瞬きをした。
「変わった飲み方だ」
「うん、アイスコーヒーに限ってだけど」
傾いたグラスの中で、氷がカランと音を立てた。


そこまで思い出して無意識にグラスに手を伸ばしたとき、彼はやっと顔を上げた。
「あ…あの、愛したい、って」
もう顔は赤くなくなっていたけれど、彼の動揺は落ち着いてはいないようだった。それを隠すつもりもないのだろう、いつにもまして情けなくみえる。
「うん、そう言ったよ。愛したいの。私は。」
今日は昼をだいぶ過ぎてから入ったので、客はそれほど多くなかった。それでかえって、それぞれの会話が鮮明に聞き取れた。別に興味もないけれど。
「愛したいって言うことはさ、つまり君は人を愛せないの?」
見た目と口調に似合わず、彼は物事をすぐ見極め、そして迷わず口に出した。言ってはいけないことと言っていいことも、ちゃんと分かっている。
下がった眼鏡を軽く押し上げて、いつものカフェオレに手を伸ばした。この暑いのに、変わらずのホット。
「…飲まないの?」
暖かい液体を飲み込んでから、彼はまだ私の手の中にある冷たいアイスコーヒーに目をやった。
「自分のが暖かいヤツだからって、あげないからね」
彼はふにゃり、と背後に文字がみえるくらいに笑ってから、もう一口その暖かいものを飲む。


私が泣き出しそうになったとき、彼は決まってこういったものだ。
「とりあえずこれ、飲む?」
私の前に自分のカフェオレのカップを差し出して、おきまりの台詞を言う。私は私で、いつも両手を固く握りしめて膝の上に置いているので、手を伸ばそうにも伸ばせない。
彼の持論では、寂しかったり悲しかったりするときは、暖かいものを飲むと良い、ということらしい。私にはそれは理解できず、頼むものはいつもアイスコーヒーに落ち着いてしまう。ある日は砂糖だけ際限なく入れ続け、その次はミルクと砂糖の黄金比を探求した。その真正面で彼はカフェオレをすすった。寂しくて悲しいのは私の方なのに。
だけど彼はとても優しい。


「愛せないよ、だって」
口の中は、アイスコーヒーに潤わされることもなく、だんだんと乾いていく。手の中のアイスコーヒーは、握られたまま冷たさを失っていく。
「…うん」
「だって、だって愛せないんだもん、」
いつのまにか彼のカフェオレは無くなっていた。飲み干してしまったカップは、それでも暖かさを残したままなのだろう。
「愛せないんだから愛そうとしてもできないの」
氷がカランと音を立てて溶けていく。まだ形は残ったままだ。それと一緒に周りの会話も形を持って溶けていく。
ボックス席のなかは溶け出さない。


そういえば不思議と、私が彼に思いをはき出してる間、それを邪魔するものは何一つなかった。周りの雑音も、かえってボックス席の中を包んで、物語を守ろうとしてくれた。ウェイトレスも立ち入ってこなかった。だから私は彼に、寂しかった記憶や悲しかった光景や、許せない友達や嫌いになれない親のことを話せることが出来たのだ。その間彼は、時々カフェオレを口にしながら、優しい相づちを打っている。
どれだけ嫌なことをはき出していても、彼が正面にいると、物語は優しくなった。


「愛したいよ本当は、だけど、分からないけど、愛し方が分からない」
彼が口を開いて何かを言いかけた。けれどそれは上手く言葉に出来なかったのだろう、そのまま口を閉じる。そんな彼の不器用さは、いつもの優しさからは想像も付かないほどだ。ずり落ちた眼鏡を直そうとした手まで、よたよたと頼りない。
「愛ってなにか、誰も教えてくれなかったもん」


いつだったか、彼が私の手を握ろうとして止めたときがあった。なんの話をしていたんだろうか。ただ、私が涙を流す直前だったということだけ覚えている。記憶の中のその時の彼は、滲んで輪郭がぼやけている。彼は私の手を温めてはくれなかったけど、それでも私は彼の優しさに十分に触れることが出来た。それでその時は、きちんと家にかえることが出来たのだから。


「…ねえ、僕のカフェオレがさ」
いつもの相づちでなく、彼はそう言うなり、また、あの笑いを見せる。そしてそのまま続けた。
「僕のカフェオレ、全部無くなっちゃったんだよね。だっていままでずっと飲んでたもん。…知ってる?僕ね、貴方とこうやってここで話す時、いつも同じようにしてるんだよ」
彼は体を滑らせる。横移動で席の奥まで移動してから、店全体を見回した。
「例えば席はボックス席。それは貴方のこだわりでもあったよね、そうじゃないと話が出来ないんだ、特に貴方が」
あなた、の言い方がいつもより優しいことに、彼は自分で気付いているだろうか。
「それにカウンターだと、歩いてる人に僕の情けない姿が丸見えだしね」
頭を掻いて、その時に丁度私と目が合った。いつも彼は、私をちゃんと見つめて話を聞いてくれる。それで目が合うことも多かった。それなのに、今日は目が合うだけで、さっきと同じように顔は赤くなった。
「あと、カフェオレ。」
「…寂しかったり、悲しかったりするとき、暖かいものを飲むと良いんでしょ」
アイスコーヒーが手の熱を奪いながら、氷を溶かしていくのが分かる。
「そうそう、…覚えちゃったよね、毎回言ってたし」
うん、と私は頷いた。溜まりかけた涙が、まるで驚きでもしたように戻っていった。彼はそれを見て笑う。
「…あとは、君が気付かないようにさりげなくさりげなく、ウェイトレスさんにサインを送ったりとか」
「え」
丁度、通路をウェイトレスの女の人が通りかかった。今まで何度か彼のサインとやらを受けとったことがあるのか、2人に割り込むことなく、飲み終えたカフェオレのカップに気付きながら、そのまま歩いていってしまった。彼がそれを見て、少し嬉しそうにする。
他の客はそれに気付くことなく、ただ自分たちの会話を進めている。それが私たち2人を覆っていく。
「…君が抜き取ったストローを置く位置にナプキンを置いてみたり」
「…あ、」
確かにストローの下には、茶色くシミが出来た紙ナプキンが敷いてある。アイスコーヒーはそれを無視するように、まだ私の手の温度を奪い続けている。
「気付かなかった?…いつも貴方は、全力で話をするから」
そういえば、彼がこういう風に話をするのは初めてだった。いつもいつも、私は思いをはき出して、彼は優しく受け止めた。


「…ありがとう」
初めて話を聞いてもらった日の帰り道、私は素直に彼に言った。けれど彼はそれに素直に頷かず、むしろ少し不満そうにした。不満らしい不満ではなく、それは何処か不思議に優しさを持っていたのだけれど。
「まだ全部話せてないんだったよね?だったらさ…それは、全部話し終えてからにしてよ」


「貴方が人を愛せないって言うなら」
彼は私の目を見つめながら、それで顔を赤くして、話し続ける。
いままでずっと話ししかしてこなかった私は、下手な相づちを打つ。
「貴方がそうなら、僕は」
ふと、落ちていった空気につもった埃と、母が流した涙を思い出した。

気付くとアイスコーヒーを包む私の手は、彼の暖かな手に包まれていた。彼の手は私が思っていた通りの暖かさで、やはり彼らしい優しさを持っている。ボックス席の中の物語の中、2人分の手の中にはまた別の話があるのかもしれない。

彼がそのまま口を開く。「僕が愛すよ、貴方を」


埃は全て舞い上がった。涙は綺麗に蒸発していく。甘いだけのアイスコーヒーの味も報われた。氷がカラン、カラン、と立て続けに溶けていった。

≡≡≡

店を出て、同じ駅まで歩いていく。店の中のように、他の会話は私たちを覆ってはくれないけれど、今日は私の手は彼の中にあった。
さっきまでのアイスコーヒーの冷たさに奪われた熱は、もう彼のもので十分に満たされている。

「そういえば、私愛し方がまだ分からないけど」
私がすこし意地悪く彼に言うと、彼は私の手を握った方とは逆の手で眼鏡を押し上げる。それから笑って、私の目を覗き込んで言う。
「だから、僕が貴方を愛して、その方法を教えてあげるから」


「…ありがとう。」


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